お参り
内宮へ行った時の感想を送って頂きました。
なかなか興味深い内容です。
こればかりは体験してみないと絶対にわからない事実ですね。
そんなことで身体が変化するのか?
という疑問はあると思いますが、それは変化した経験を持つものにしかわかりません。
最後に少しずつわかっていくというのを剣に例えた表現も面白かったです。
できると思ってやるのと、できないと思っているのでは全く違います。
まずは、やってみる。
そして、それを続ける。
出来る出来ないは全く無関係
出来たらラッキー
という感覚が大事です。
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『伊勢神宮参拝体験記』2021年12月6日 それは一瞬で起こった。
まるで達人の居合にもあったかのような瞬間だった。
伊勢神宮には何度も足を運び、外宮、内宮と手慣れたものである。 以前、御薗治療院の中村秀一先生からも伊勢参りの仕方を教えていただいたが、なかなか神様との交信は難しいと思っていた。
今回は神様と交信しようとはひとつも考えていなかった。 内宮はしとしとと雨が降り、幻想的な周囲の山々と辺りに覆いかぶさる神宮杉や檜を眺め道中を歩いた。
傘を持っていなかった私は、冷たい雨に濡れながら正宮までの参道を歩いていた。 正宮に着き、ひと通りの礼儀作法でお参りを済まし、左側にずれ御本殿の方をボーっと見ていた。 神様はあの辺りかな?
と木の上を探る。
外宮ではあの辺りかなと、なんとなく神様の居場所が自分なりに分かるのだが、内宮では未だ感じたことはない。
今回も分からないかな、と思ったような気がした瞬間、無の境地に入っていた。
何も考えず、ただ見ていた。 その無言無音の時間はそう長くはなかったが、それは突然起こった。 「すーっ」と足元が軽くなったのが感じられた。 それから体幹部から頭へとそれが続く。
ゆっくりではない。
かといって一瞬でもない。
ゆっくりでもなく、はやくもない。
後から確認したのだが、中村先生のお参りの仕方に神様のエネルギー体を左足から感じ、右の側頭部へ抜けるようにするとあった。 その感じに似ているのかもしれない。 その刹那、何か自分の中に有ったものをそこに置いた感覚があった。
難しい表現だが、確かにそこに置いたのだ。 捨てたのではない、置かせていただいたのだろうか。
その後、歩き出したときに歩みが軽く軽快なのは言うまでもない。 面白い現象は、雨に打たれて冷えていた手が温かくなったのである。 それまで、じっと立っていたから温かくなる意味が分からない。
一緒にいた妻にもそれは確認済みである。 しばらく、体が軽く、何となく心も明るい感覚で歩いていた。 けれども、宇治橋へかかる頃には元通り手は冷たくなっていた。
あとで、中村先生に確認したところ、それが無意識に起こったことが素晴らしいとのお言葉でした。 意識して無意識になる。 なろうとしないでなる。
これが『合気』の現象である。 実際、神様との交信をするということは意識下にはあるが今回はまったく意識していなかった。
神様どこにいるかな~なんてことは少し意識していたが、現象発生時は無意識と言っていいだろう。
今回、12月の雨の中で寒い、初めて伊勢神宮に参拝する妻が一緒、そんなこともあり他のことを考えていなかったのである。
ただ、こういうこともコツが分かると意図的に無意識をつくり、体を軽くする現象を自分で起こす(なる)ことができるようになるようだ。
実際、中村先生は過去に毎日外宮に参拝して、毎回体が軽くなる体験をされている。
合気の言葉、考え、実践は付け焼刃でも良いと思う。 古くからそれを真剣に研鑽を積み重ねた人々の知恵を借りて、自分の中に徐々に描いていく。
それを分かったり、分からなかったりすることを繰り返し、少しずつ切れない刃を磨いていく。 幾年か経つごとに徐々に切れる刃になれば、次第に切れ味の良い真剣に変わるかもしれない。
現象に出会って行くことで体の中に入るものが増え、また置いていく。 抽象的で表現が難しいが、今回の「すーっ」という体が軽くなる現象は真剣で知らぬ間に切られた感覚のようにも感じた。
当然、切られたことはないが、達人が切るとはこういうことなのかもしれない。
御座の白浜
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